捨てられてしまったのかい?ぼんやりとした頭で天を仰げば御釈迦様なのかなあ、後光を背負って微笑んでいらっしゃる。あたたかい笑顔、それ、あたしがずうと欲しかったのだ。言えばその御釈迦様はちょっと笑顔を薄くして次の瞬間にはひょいとわたしを抱え上げてくれた。心臓の一定のリズム、撫でられる自分の頭に伝わるこころ落ち着く体温に自然と涙が流れるのには時間をそう、費やさなかった



いま、ベッドの半分を占領する女をぼうっと見つめる。その体温は先程、風呂に無理やりに入れたので温かく、なによりもキレイにしてやったという達成感と言えばいいのだろうか、とにかくそんな感情が身体の中を少しでも占めているのを感じると同時に、自分のシャツの裾を一向に離す気配のない、弱々しく小さな手に身体を占めている筈の達成感が、薄らいでしまう気がする。なんだってといると自分のペースを崩されている気がしてならない。脱衣所で服を脱いだら風呂に入れよ、言えばきょとんとして「どうやって入るんだ」と聞いてくるのだから眉間に数本の皺が生じても仕方ない。さらに驚くべく、女としてはあまりに不適切な言葉をいけしゃあしゃあと言いやがる

「風呂なんて一週間に一度、入るか入らないかなんだぞ」


入るかはいらないか。つまり入らないこともある、ということだ。どれだけ汚いんだ、お前は。思えば無言でシャワーを取り、既ににむけて温度も確かめないままに湯であろう、きっと、それが発射され直に浴びて着物も何もあったものではなくなって、やはり唐突なその行動に本日何度目かの「ぎゃあ」を聞く羽目になる

「なにをするか!つめたいではないか!」
「(まだ湯じゃなかったか)うるせえよ、ここでは毎日、風呂に入んだよ」

そのままぎゃあぎゃあと叫ぶに「うるせえ」の一言を発してシャワーの使い方と風呂桶にどうやって湯を入れるか、何で洗ってなにで身体を拭くかをさらさらと言いその場から立ち去ろうとすれば後ろからぎゃんぎゃんとまだ何か言っている。まるで拾ってきた猫が喚いているかのようだ

「入り方はわかったが何も着物を濡らすことはないだろう!」
「このっ・・・・・!」言うが早いか超直感が告げた後にはもう遅い。さすが人外の者、悟られぬ速さでじゃあと勢いよく俺の背中に湯をかけてきやがった(もう冷たくはない)さすがにコレには手を出さずにはいられなかった。自分の着ているのはなんと言ってもヴァリアーボスである証の、エンブレムのついた上等の制服であり、これを濡らされてしまえば大事に着ているものなのだから腹が立っても仕方ない。それにクリーニングやらなんやらに出さなくてはいけないので、つまりはめんどうなことが多いのだ。仕返しをしてやった、と満足そうにケラケラと楽しそうに笑っているを見て普段なら手をあげる方向がカスだとかに回るのだが生憎、ここにいるのは髪も服も濡れた俺と同じように前髪からぽたぽたりと雫を零す女だ
つかつかとブーツを鳴らしてビシッと頭を叩くと笑っていたが怒るか、としてから内心、少し思ったが予想外にもきょとんとネイビーブルーの瞳を少し大きくして俺を見てくる、その時間がそんなに長いものではないだろうに、何故だか、俺には長く感じられたのだ。濡れて髪を濡らし、紅色の唇に透明の雫がさらに潤いを持たせて、長い睫毛に水滴が幾つかついて、大きくなった瞳を、何故だか

「いだい」
小さく、ぽつりと零れてきた言葉にただぼうっとしていた自分がその一言に戻ってくるのに多少の時間を要した
「いだいではないかー!」
またわんわんぎゃあぎゃあと叫び始めたには先程の魅力は皆無に等しく、その変わりようを見てどっと疲れた俺は面倒になって、いやそれが自分のせいだなんて欠片も思わないのだが、なんでかその様子を見て、本当にどっと今日の疲れが出て、早く風呂に入って寝てしまいたいと思いを馳せながら後ろで騒ぐ声を背で受けつつガラス戸の現実感ある冷たさを含んでいるドアノブを捻った


それからあがってきて肩よりも下の、セミロングの黒髪がてんてんと跡を残して自分の方に来ているのを見てなにか話しかけるのも億劫になり、無言で首から下げられていた水分を含んでいるバスタオルを取り上げ、がしがしと拭いた。なにかまた言うのかと思えば黙って目を閉じながらクスクスと小さく笑うのだから何を考えているのか分からない。ベッドを指差して先に寝ていろと命じておいたのが風呂から上がって静かに一人、窓の外を見つめ、輝くネオンに何処もかしこも同じような風景だ、と思いを馳せ、さあ夢も見ずに睡眠を貪ろうとすればこの様だ。誰もベッドに寝ろとは言ったがどうして、わざわざホテルマンが荷物を置いたベッドに寝るのかコイツは。思いながらも、もう一つのベッドで寝ようと足を向けたときだった
「ザンザス」
名前を、確かに、呼ばれたのだ。その声に自然と振り返る、そう、なにも考えていなかったならば名前を呼ばれて振り返るのは仕方ないことなのだ、それが所謂、条件反射というものだ
「ザンザス」
振り返った先のはベッドに小さく見える体を沈めながら俺の着ているシャツの裾を、この弱さなら無意識、眠っているからそうだ、無意識だろう、掴んできた。なんだなんだと思い「何処のガキだよ」言おうと口を開けば毛布からひょこと覗かせる頬には風呂場で見たのと同じように見える、だが違う意味で俺を魅了する、透明の雫が流れていた。寝ながら泣くとは器用なヤツだなと場違いなことを思案した筈なのにどうしたことか俺としたことが!頬に伝った穢れを持たない涙の断片を自分でも驚くくらいに優しいと言っても大仰でないくらいに、指は静かに、起こさないように、拭うのだ、雫を


眠りの世界でさえ安住を許されない者がいた