ふとしたことで人間の瞳からは涙が零れるらしい。引き金はあまりに簡単なことで、冷静になった私が目の前にいたらきっと、いいえ絶対に愚かだね、とゆったりとした速度でうっすらと笑むのだろう。それが自分でも信じられないくらいに恐ろしいことだと思った


「まだ起きてたの」
声がした方に振り返る気力がなかった。だから私はちょっとの間、思案して、その後にとても素っ気無く「うん」とだけ言った。見れば分かるだろうに、ベルも人が悪いな、関係ない人にまで牙を向けている自分に気が付いてすぐに自己嫌悪に陥る。そんな私の内情なんて読み取れないくせにベルは黙って一歩、また一歩と近づいてくる。コツコツとフローリングの床が何食わぬ顔をして呟くので私はそれさえも嫌なことだと思った。思わずにはいられなかった。いまの私はちょっとした、些細なことにでも敏感なんて言えば聞こえがいいけど要は牙を向けることができる対象物を血眼になって探している獣だ。対象物が見つからないと不安で、それでいて誰かに話しかけられてしまえばそれをいいことに牙をむける。でも話しかけられなかったらとても寂しい思いをして、まったく悪くもないのに相手を傷つける言葉を出す。本当に、勝手だ

名前を呼ばれても私は振り返らなかった。窓の奥に映るどうってことないただの景色を眺めながら、先程まで流れていた音楽を聴いて泣いていた。いや、泣いていたというのはおかしいのかもしれない。別段、悲しくなんかないのだから。そう、悲しくなんか
「どうして涙を流しているの」
前髪のせいでベルの瞳は見れなかった。それでもニヤニヤしたりはしない。そう確信して思えるのは私がベルをそれだけ信頼しているということに繋がる。どうしようもなく頼っている、ベルにこうやって無言で涙を流している姿を見せれば助けてもらえる、こころの深くにある人間のどろりとした、秩序も調和もない、触れたくもないと思わせるような感情がある。それを私は見たくなくてただ、瞼を閉じればもう一度涙がつうっと流れる。なんで流れるんだろう、この液体は。どういった感情のせいでこんなものは流れてしまうのだろうか
「きっと私は弱いんだよ、ううん、きっとなんかじゃなくてとても弱いんだ。だからだと、思う   よ  」
ふっと意味もわからなく笑んだ。まるで亡者の笑みのような、そんな表情をしていると分かっている。すごく気味の悪い顔をしていると思うのにそのまま壊れたようにカラカラと。そうしていたらまた涙が流れた。とてもベルを困らせている、本当に、私は何がしたいんだろう
「そういうの、やめろ」
ほら、ベルが怒った。私はそのままフローリングを見つめながらカラカラと笑い続けている。止め処なく溢れてくる涙のせいで視界はぼやけてなにがなんだかわからなかった。ごめん、なんでかな、止まらないんだよこの笑い。なんにもおもしろくなんかないのに! 「やめろって言ってんだろ!」
握りつぶしてしまうように、私の肩は激しく掴まれた。項垂れて尚も笑っていた私だがさすがにもう、視線を下にやっていることはできなくなったのでまっすぐに前を見たらベルがなんでか知らないがすごく、すごく辛そうな、なんて言えばいいのか、言葉にするのが躊躇われるくらいの、もう私はこんな顔をベルにさせたくなんかないって思うくらい現実味があって、ふわふわしていた私のこころをいまこの時に引き戻すには十分で、そんな顔は私には勿体無いと心底、そのときばかりはなんの駆け引きもどろどろとした感情もなにもなしに、ただそれだけを思った
「泣きたいなら声をあげて泣けばいいんだ!笑うなよ、そんな、顔を、苦しそうに   哀しい顔を  して  笑うなよ!」
「・・・声を   あげて・・・・・?」
「そうだよ、苦しいのとか、全部声に出して泣いてしまえばいいんだよ」
そうしたらベルの両腕が私の首に巻きついて、頬の隣に金色の髪とよく知った顔が歪んだモノがあって、あ、いまわたしはだきしめられているんだと、きづかされた
気取っていたのだ、この孤独な世界で生きている自分はすごいのだと。誰もいなくっても私は生きていけるのだと。だけれどそれは嘘で、生きてなんかいけなくて。弱音を吐く相手も自分の牙で殺してしまった。ただ教会のガラン、がらんと鳴る鐘の音を聞いて呆然としながら何度、泣いても声だけは出せなかった。たとえ無人の教会でも私は声を出さずに佇んで涙を流した。みっともないと思った。慟哭することは己の弱さをひけらかして同情を誘い、そうして牙をむける対象に噛み付くのだと。だけどどうして、どうして目の前の人の体温は私をこんなにも不安定にさせるのだろうか。怖いよ、すごく怖い。いま私は声に出してしまいそうだ、一人はいやだ、傍にいて、と。堪えていたのにこの人も本当に人が悪い。ぎゅっと強く抱きしめられていよいよ私の中に留めておいた腹の中にある恐れとか、そんなものがどうっと濁流のように、そしてそれを流す涙と共に外の世界へと出てきた



眼球を潤すそれを私は酷く等閑に扱い 指し示す意味を知りたくない  拒絶するばかり  それでも救いの手を求めて    彷徨っていた