よく分からない感情が胸を覆う。随分と嫌な感情だ。なんだかとても煩わしい。ええい、あたしにそんな物を認識させるな。そこに存在するに値しないのだ。お前は誰だ、あたしと同じ顔の作りなのに、あたしはそんなでれでれした顔で笑ったりはしないのさ
波多き世間にて君は右も左も分からない故に
任務の報告書を出すために自分のボスであり、忠誠を誓うべき男のもとへと赴く。現在のヴァリアーはどうにも忠誠心に欠けているような気がしてならない。一族がボンゴレのヴァリアーに所属してきたせいか忠誠心と殺しの極意についてはきつく教えられてきた。あたしみたいなヤツと気が合うスクアーロにはそういったものがあるのだろう
二回ノックをしてから「です」と自分の名前を扉の奥の主へと告げる。「入れ」の言葉の後に細工が美しい扉を開けるとグラスを傾けながら書類へと目を通すザンザスの姿があった。執務中だったか。とりあえず先程仕上げた報告書を一礼してから彼へ差し出す
黙って受け取られ、一瞥された書類は誰かの報告書の上に置かれた。ああ、端正な顔をしている。ボスの側にいたいなどという事も許される筈もなく、特にいる理由もなくなったのでもう一度一礼してから扉へと引き返そうとした時だった。左手を掴まれてしまう。心臓が跳ねる。突然のことに頭の中がパニックになったが気を取り直して赤い双眼を向けてくる主に問いかける。そんなにこちらを見ないで欲しい
「何でしょうか」
平静を保った言葉に対してザンザスは特に何も言わなかった。趣味の悪い悪戯だろうか。他の男なら自由な右手で眼球を潰してやるところだが生憎、そんなことができる相手じゃあない(目の前でグラスを煽ったのは他ならぬザンザスなのだ)コトッ、上品な音が部屋を満たす。グラスが机の上に置かれた音だ。左手が空いたザンザスは右手であたしを引っぱって膝を折らせた。上を見上げると左手が頬を撫でる
「なんの冗談ですか」
口調に棘を含ませる。確かに今のヴァリアーには女性はいない。だがあたしの力量を認めてメンバーは普通に接してくれる。ボスとて同じだったのに。どうしてしまったのだろうか。普段のボスからは考えられない位に優しい手だと、思った(やめてくれおかしくなる)
「」
名前を呼ばれたので返事をしようとしたがそれより早くザンザスが言葉を紡ぐ
「少しは自分の感情に気付け。あと周りにもだ」
どういう事ですか、言おうと口を開こうとしたら上から近づいてくるザンザスの顔。拒もうと思えばいくらでも拒めた間合い、そしてスピード。だが身体は針金でぐるぐるに巻き付けられたかのように動かない。自分の手に在るときは簡単にぐにゃぐにゃにできるのに。どうして
触れあった唇は意外と温かいもので。優しい物で。静かに目を閉じてこの分けの分からない感情に名前をつけようと試みたが私にはそれができなかった。それが悔しくて、分からない感情がもどかしくて混乱した頭で目を瞑りながらつう、と涙を零した。ザンザスが気を悪くするだろうな、真っ先に思ったのはそんなことだった
離された唇はきっとあたしを咎めるか突き放すか。それを思うとなんでか涙を止めることはできなかった。何年ぶりの涙だろう。泣いたのなんて、あたしがひとりぼっちになった時以来だ(親はいない。恐ろしい程の暗殺の才能を開花させたあたしを危険と見なし殺そうとしたのであたしも二人を殺した)(忠誠心や暗殺の術を教わってもそこに愛情を感じたことなど一度もない)
「その感情が分からないか」
頬をもう一度撫でられた。目尻の涙を拭われたときに胸の中のもやもやとした感情がはじけてしまう。ぼろぼろと零れてしまうそれを止める術を知らないあたしはただただ戸惑うだけだ
「それがなんだか分からないんだろう」
こくんと頷きながらも必死で止めようと目を手でごしごしとふく。とまれ、とまれ!
「それの感情に名前をつけるとしたらとても陳腐で安いものなんだ」
そう言ったザンザスの顔は頬にあてられた手のようにあたたかくて、初めて胸の中が満たされた気がした